当ブログ『みみライフ』へ足を運んでくださり、ありがとうございます。ブログを運営しているはるくです。
みみライフは、中途失聴当事者の私が耳をとりまくいろいろな出来事について書いている雑記ブログです。
ブログを始めた後に神経の難病も見つかり、歩きにくさも抱えるようになりました。そのため、今は耳と足のことを中心に書いています。
目次
管理人情報
平成生まれの20代男性です。
- メガネ
- 両耳人工内耳
- 趣味は映画、マンガ、Web小説など
よく考えすぎだと言われます。アイコンに写っているのは、実家で暮らしていた時に散歩していたらばったり出会い、そのままついてきて家の子になった猫です。物語が始まりそうな予感がしますね。
医学的に私の属性をまとめると
- オーディトリー・ニューロパチーによる感音性難聴
- シャルコー・マリー・トゥース病による体幹機能障害
の2つになります。どちらも神経の障害で、今も研究が進められているものです。重複障害により身体障害者手帳1級になります。
手話ができる人とは手話で、できない人とは筆談を中心に人工内耳の聞き取りや口を読んだり、音声認識アプリを使ったり、その時の状況に合わせてやりとりしています。
好きなものは
- 猫と
- グレープフルーツジュース
居酒屋のソフトドリンクメニューにグレープフルーツジュースはマストです!
好きなものや何をしたい、こうなりたい感情が薄い自覚があり、ブログを始めたのも好きなものを増やしたいと考えたことが一つのきっかけかなと思っています。
こんな自分なので「ブログでこれについて語る!」みたいなものはありません。
むしろ当事者研究や普段の生活を通して考えたことなど、あっちにいったりこっちにいったりふらふらしながら、一緒に成長していける場にしたいです。
なぜこのように思うようになったのか、私のこれまでについて簡単にまとめてみます。
【小学生〜中学生】中途失聴の発覚
オギャーと生まれてから小学5年生まで、私は聴覚障害という概念を意識したことすらありませんでした。
小学5年生の身体測定で聴力検査があり、そこで初めて難聴気味であることを指摘されたのが始まりです。
児童が多くまとめて数人で検査をしていたんですが、なかなか聞こえないことに焦り隣の子の押すタイミングを真似していたら、先生にはばればれで発覚しました。
当時の記録を見ると10dBから40dBくらい。難聴と言っても日常生活に困ることはなく、ときどき聞き返したりテレビの音量を上げたりするくらいで、難聴の自覚はありませんでした。
ボーイスカウトの活動でキャンプやハイキングに行ったり、サッカークラブに通ったり、小学校のマラソン大会で勝つため毎日走ったり、先生にも恵まれ充実した日々だったと思います。
しかし中学生となり、少しずつ聞こえにくさが進行していきます。
- 席替えでは毎回前方の席へ
- リスニング試験は個室で
- 教科書の音読している箇所を隣の席の人に教えてもらったり
- 校内放送の内容を友達に教えてもらったり
など、小学校時代と比べ否応なく配慮や助けがないとできないことが増え、申し訳なさや人の目を気にしていたことを覚えています。
それでも、陸上部で毎日走り、生徒会に立候補して役員や生徒会長を務めたりしながら、クラスで友達と楽しく過ごしていました。すてきな先生が多く、自分の行動を見てくれて認めてくれることが大きなモチベーションになっていたと思います。
この頃は聞き返す頻度が増え、音楽の授業についていけないことはありつつも日常生活に大きな支障はありませんでした。
4つの小学校出身の児童が集まる中学校で、もともと仲の良い友達が多くいた影響もあったと思います。
【高校生】難聴の自覚と挫折
高校時代は私にとって大きな転機となりました。
ますます聴力が落ちていき、日常生活への影響が著しいものとなっていったのです。生じた困難をまとめてみると
- 意識して聞こうとしないと意思疎通が難しくなったことによる困難
- テレビや電話など音声情報へのアクセスが難しくなったことによる困難
- 困難が持続することによって生じる困難
の3つに分類できるでしょう。
特に意思疎通の困難は、生活のあらゆる面でさまざまな問題を引き起こしました。
わかりやすく影響したのは授業がまったく聞き取れなくなったことです。高校に入学してからも前方の席にしてもらい先生の口を読み取りながら聞いていたのですが、だんだんと無理がくるようになりました。
ものすごく集中して先生の口を見ないと、まったく何を言っているかわかりません。この状態が持続するにつれ、昼休みになると疲労困憊、耳鳴りが1日中鳴り響き、よかった成績もジェットコースターも真っ青な角度で下がり、ついには赤点で補習の常連となりました。
なんども聞き返さないと相手の話がわからなくなってしまい、繰り返し相手に話をさせてしまう自分が嫌でした。
人と話すことで聞こえなくなっていっている自分を自覚させられてしまうのです。
そして、次第に人と話すことを避けるようになりました。
休み時間になると机に体を伏せたり図書室へ向かい、誰にも話しかけられないようひたすら時間が過ぎるのを待っていました。
誰とも目を合わせないようにし、家に帰ると疲労からひたすら寝る生活が続きます。
世界に自分しかいないような圧倒的な孤独と、将来への不安。
家から学校まで自転車で通学する間、今ハンドルを傾けたら楽になるかな、学校に行かなくてもよいかなと考えていたことを覚えています。
そんな日々の中、今でも覚えている強烈な出来事があります。保健体育の授業での出来事です。
授業の中で障害について触れることがあり、先生が話をしました。
- 「障害を持つのは全体の◯%」
- 「クラスに◯人はいることになる」
- 「例えばこのクラスでは◯くんみたいな」
集中して聞いていたせいかはっきりと内容がわかり、クラスメートの突き刺さるような視線を強く強く感じました。消えてなくなりたかったです。
先生にまったく悪気はなく、教科書通りに説明をしていたのだと思います。たまたまクラスに私がいたから、ちょっと補足したくらいだったのでしょう。
1年生の頃はまだ毎日学校に通い表面上は普通の生活ができていましたが、これを機にかはわかりません、2年生になりときどき学校を休むようになっていきました。
高校時代はさまざまな経験を通して自尊心やアイデンティティ、友人関係など自らのことを考え、自らの行動によって結果が変わることを学ぶ時期だと言われます。
しかし、中途失聴という自分の努力や行動では太刀打ちできない出来事に、
- 自分がどう生きても自分の人生は変わらない、がんばる意味はない
と学んでしまったのではないかなと思うのです。
どうすることもできない理不尽に、暗闇の中どこにも進めずしゃがみこみ、次第に受動的とも重なる逃避的厭世的な態度が根付いてしまったと考えられます。
その結果、2年生の夏から学校を行けなくなり、家に引きこもりました。
引きこもり中は、朝から晩までひたすらベッドに寝転がり本を読み、読む本がなくなるとガラケーで検索して出てきたWeb小説を貪るように読んでました。
何かしていないと際限なく不安がわきあがり、嵐に翻弄されるように散り散りになってしまいそうだったのだと思います。
聴覚障害の知識も、知り合いもなく日々否応なく変わっていってしまう〈私〉。
私が私でなくってしまうような感覚に恐怖し、あたりまえに地続きだった私の人生がここで一度破綻してしまったのだと今ならわかります。
その後、はっきりしたきっかけはわかりませんが半年から1年ほどで引きこもりから抜け出し、大検を取ったり通信制高校に転校したり親の助けを受けて少しずつ社会に復帰し、大学へ進学します。
とにかく前へ進まなければいけない切迫感に、以前教師に憧れていたことから教育系の大学に入学しました。
【大学】中途失聴と共に生きる
大学時代は、
- もう一度1から人との関わり方を学び、聞こえにくくなった私の身体と私の人生を結び直す時間
だったと思います。
人とつながりたい話をしたいと切望しながら、人と関わることに恐れを抱いていた自分。それでも誰かとつながりたくて、手話の勉強を始めました。
基本的な手話や指文字から始め、少しずつ手話で気持ちを表現できるように。
聾学校出身の手話ができる同期生がいたことから、学科の多くの学生が率先して手話を学んでいる環境にも助けられ、手話で人とつながることができるようになっていきました。
聞こえにくくなる前はどうやって仲良くなっていたんだっけと途方にくれることもありました。先生や友達、気になる人など、距離を詰めることに戸惑い言い訳して、後悔したこともあります。それでも一歩進み、怖くなって二歩戻るような亀の歩みでもう一度人と出会い関係を築いていったことを覚えています。
今でこそ振り返り言葉にすることができます。しかし当時はただ毎日を駆け抜けていくことに必死でした。
2年生になってからは、
- ろう学生懇談会へ入りさまざまな活動に参加したり
- アルバイトをはじめてお金を稼ぐことを知ったり
- 中途失聴の後輩が入学し障害について愚痴を話し合ったり
など、これまでにない出会いやたくさんの経験を通して、聞こえにくくなった私の身体と破綻した私の物語が一対の存在へ収束していきました。
つまり、高校時代聞こえにく身体からびしばしダメージを食らう一方だった私の〈物語〉は、大学時代を通しやっと〈身体〉と休戦したわけです。〈身体〉と〈物語〉の歴史的な講和です。
平和が訪れましたと言いたいとこですが、そう簡単には行きませんでした。
就職活動の失敗と休学
〈身体〉と〈物語〉の休戦はすべてが元通りになることを意味しません。
いくつもの経験と対話を通し、ひとまず
- 私の人生は聞こえにくい身体と共にある
と自然に感じられるようになっただけです。乱暴を承知でまとめると、メガネの度がやっと合ったイメージでしょうか。
しかし、本来高校生の年代で学ぶべき、自尊心やアイデンティティ、友人関係など自らのことを考え、自分がどうなりたいかは雲のように宙に浮いたままでした。
何かしなきゃと取り組みますが、4年生の頃は何をしたいのか曖昧なまま空回りしてばかり。
高校時代の物語の破綻を新たな人生の始まりと考えると、まだ6年程度しか立っていません。適切な考え方ではないかもしれませんが、まだその段階に至れていなかったのだと思います。
この状態で就職活動を行い情報収集したり自己分析をやってみてもすべてがピンとせず、やらないといけないのに自分が当事者である感覚もなく時間ばかりが過ぎていきました。
そして、卒業論文とも重なり心身の調子を崩したこともあり半年間の休学に。再び引きこもり、いろんな人に迷惑をかけ本当に申し訳なかったです。
休学中は、
- ひたすら休んだ後
- ブログを始めたり
- Web小説を読んだり
- 大学院受験の準備をしたり
していました。はるばる実家まで友達が会いに来てくれたことも。とても嬉しかったです!
当時の私は今ほど自分の状態を言語化できていたわけではありません。しかし、まだ時間がほしいと考えたのか、気になることもあり大学院への進学を決めました。
この時聴力は100dBを超えていました。人工内耳の装用もこの頃です。
人工内耳適応記!私が感じてきたこと【手術からマッピングまで】
【大学院】カウンセリングと当事者研究
大学院時代は、
- もう一つの障害の判明
- カウンセリングの開始
- 当事者研究との出会い
という3つの出来事に大きな影響を受けました。
引きこもりから復帰して以来私は少しふらふらした歩き方をするようになります。半年以上もろくに運動せずナマケモノのように寝てばかりだったので、筋力は減って当然です。
しかし、毎日外に出て歩き運動していてもまったくよくなる気配はありません。大学時代スポーツの講義や友達と出かけたりするとき、自分が情けなくなることがありました。
聞こえにくさは仕方ないにしても、歩きにくさ疲れやすさは自分の責任なのだから、なんとかしなければと思っていたのです。
先生から検査した方が良いんじゃないと提案してくれることもありましたが、聴覚障害に気を取られ当時は引きこもり以外に原因があると考えられませんでした。
しかし大学院へ入学し落ち着いて来た頃、時間のある今のうちに一応検査だけでもしようと考え病院へ行くことになります。
最終的に遺伝子検査や1ヶ月の入院を経て、シャルコー・マリー・トゥース病の診断を受けました。これは、
- 厚生労働省で難病に指定され
- 神経の障害によって歩きにくさや疲れやすさを伴う
- 進行性で治療法は今のところない
病気です。杖を常用するようになり、生活は再び変化しました。
中途失聴ほどの衝撃ではなかったですが、もし私がスポーツをやっていたり心の支えにしていたら、再び〈身体〉と〈物語〉の大げんかになったことでしょう。慣れもあったかもしれません。
大学院1年の秋に判明し、リハビリをしながら時間が助けになってくれた気がします。
カウンセリングの助け
一方で研究はやることはやりながらも集中できない時が多く、先生にたくさんの迷惑をかけてしまいました。見捨てずになんども話を聞いてくださり本当に感謝しかありません。
特に2年生の夏分析に取り掛かっていたとき、2週間以上も引きこもってしまったときはひどかったです。友達の誘いを機に引きこもりから抜け出したあと先生から、
- 2週間も家に引きこもり食事もままならない状態は普通ではない
- なんらかのケアが必要な状態だと考えられる
- 一度学校のカウンセリングに行ってみるのはどうか
と話を受け、カウンセリングに通うことになりました。
この瞬間までカウンセリングにかかる発想は一度もしたことがありませんでした。鬱や精神に不調を抱えた人が対象であり、自身は心に問題を抱えているわけではないと考えていたのです。
しかし、このとき初めて
- 私はカウンセリングを受けるような心の問題を抱えているのかもしれない
と自覚しました。我ながら「遅っ⁉︎」とツッコミたくなりますが、人間自分のことほどわからないもんです(多分)。
半年と短い間でしたが11回のカウンセリングを通し、
- 中途失聴による未解決の心の傷が多く残っていること
- 生きる意欲につながる当事者感覚が薄いこと
- 回復するための根本的なアプローチが必要なこと
をカウンセラーさんと話す中で自覚し、言語化することができました。
カウンセラーさんは私にとってちょうど良い立ち位置にいて、友達や先生、家族相手だと遠慮してしまうことを驚くくらい話し続けることができました。(私を知る友達は「あんなに話す◯◯◯見たことない‼︎」となるかも。)
ひたすら自分の思いやこれまでの出来事を話しつづけ、ときどきカウンセラーさんの問いかけに答える中で、点がつながり無意識の内にあったもやのような思いが気付き(言葉)として浮かび上がってきたのです。
話し続けながら、自分自身と対話していたような気もします。対話によって、
- 心の傷の影響からか、自分の人生を自分で生きていこうとする意志が薄く、半端に能力があるせいかなあなあで進めてきてしまった〈私〉
- やりたいことも好きなこともなく、できることならずーっと休んでいたい〈私〉
- 自らの価値の基準を他人に依存したまま、他者視点で生きてきた〈私〉
など、いろんな〈私〉がいることを外部の視点から捉えられるようになった気がします。
元来抽象的で内省が苦手なタイプなので、カウンセリングはとてもよい思考の場となりました。
当事者研究との出会い
カウンセリングを初めてしばらく、9月に宮城教育大学で「聴覚障害当事者研究シンポジウム」が開かれました。
聴覚障害当事者研究シンポジウム2019に参加して 感想と備忘録
当事者研究とは、障害や問題を抱える当事者自身が問題(困りごと)に向き合い研究することです。
シンポジウムの主催者であり、自身も当事者研究を行なっている宮城教育大学の松﨑先生は、当事者研究の価値について、以下のように述べています。
当事者にとっての「当事者研究」の価値は、次の 2 つに集約できる。自分自身について新しい言葉や知識を発見する側面(discoveryとしての価値)と、それを通じて何らかの生きやすさがもたされる側面(recovery としての価値)である。
聴覚障害当事者研究シンポジウム2018報告書
おそらく長年「困りごと」を抱えながら生きている当事者にとって、「困りごと」が実は「自分発見」と「自己回復」をもたらす鍵になるという点で目から鱗が落ちる思いになるかもしれない。「困りごと」は「当事者研究」において欠かせない貴重なテーマであり、「当事者研究」はいつしか無意味化されてきた自分自身の「生」に意味を作り出す人間的な営みでもあるように思う。
私が特に着目した「自己回復」はまさにカウンセリングで自覚したポイントでした。
大学院2年の後期に出会い修士論文で忙しくなった頃と重なり、まだ本格的な研究を進められいませんが、カウンセリングでの気付きを元に研究を進めていきたいと思っています。
研究の過程はブログに書いていくつもりです。
【未来】当事者感のある生活へ
私のこれまでを今考えていることを元に書いてきました。
- 高校時代の中途失聴によって、紡いできた物語が中断し今も残る心の傷があること
- 大学時代の〈身体〉と〈物語〉の結び直しが、今私が生きる基盤となっていること
- 大学院時代のありのままでいられる友達との出会いが、視野を広げ当事者研究との出会いにつながっていること
私の物語の結末はまだわかりませんが、文章にしたことで少しずつでも前に進んできたことを実感できました。私自身今後どうなっていくか少し楽しみです。
当事者感をあたりまえのように感じられる生活を目標にがんばります。
それでは最後に、ここまで読んでくださりありがとうございました。